瞑想の本

瞑想は人生を美しく変える

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なぜ「瞑想」なのか?

突然ですが、モノ・植物・動物と人の違いって何だか分かりますか?

無機物は物理的・化学的な法則によって動かされ、単細胞生物や植物などは遺伝子のプログラムによって生のあり方を規定されます。また、感覚がある程度発達した動物の場合は、遺伝子のプログラムに「苦痛からの逃避」という要素が加わり、苦痛を避けることがその生の方向性となるわけです。

人はどうでしょうか。

細胞や身体器官のレベルでは物理的・化学的な法則や遺伝子のプログラムに規定されているし、古い脳・・・いわゆる脳幹などのレベルでは「苦痛からの逃避」というプログラムが行動をある程度規定しています。

しかし、それだけではなく、より積極的に「ここちよさ」や「幸福感」「至福」などといった快覚を積極的に求めていく性質を人は持っており、これが個体としての生の方向性を決めています。何を「ここちよい」「幸福」と感じるかは人それぞれ異なっているので、人の行動は個体によって多様なものとなるわけです。簡単に言うと「人生いろいろ」ということです。

つまり、人の行動は基本的には苦痛から逃れるためか、幸せになるためのものです。学業も、恋愛も、仕事も、レジャーも、結婚も、離婚も、食事も、性行為も、そして犯罪や自殺も、すべてその動機を突き詰めると「苦痛から逃れるため」か「幸せになるため」であるはずです。言い切ってしまいましたが、事実そうでしょう。

しかし、「絶対に幸せになれる方法」なんてないことも皆さん知っていますよね。というのは、外的な条件、つまりお金や恋人や家族などの「幸福の条件」はいつまでも存在し続けるという保証はなく、その保証の無さが不安感につながることもあるでしょう。また、いつまでも存在していたとしても、「飽きる」ということが自分の内側で起きてしまって、それらはもはや「幸福の条件」ではなくなってしまうわけです。

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そういうことに気づいてしまった人の一人に、2500年前のインドの小国の王子であったゴータマ・シッダルタ(ブッダ)がいました。日本では「お釈迦様」として知られています。

彼は王子として当時考えられる限りのあらゆる贅沢を享受していましたが、人が必ず遭遇する苦(生老病死)の存在を意識するようになってからは、自分を取り巻いている幸福な環境すらもいつかはなくなるものであり、外的な条件に依存した幸福ははかないものである、と考えたようです。

そこで彼は出家し、まず最初は外的な条件を劣悪なものにし、それに耐えることで内側を強いものにする修行を行ないました。いわゆる苦行というやつです。

しかし、これも結局は外側の条件を操作するという点では、普通の人が幸福を求めて右往左往していることと同じであると気づき、彼は何もしないで、ただ自分の内側へと深く深く意識を向かわせました。幸福を感じるのも苦しみを感じるのも結局は自分の内側であるのなら、内側を深く覗き込んでその幸福感の源泉を見つけてみようじゃないか・・・ということだったのかもしれません。

彼が行なったのは瞑想と呼ばれているものです。彼は瞑想によって「悟り」という状態に達したと言われています。

悟りがどんなものか?なんて悟ってみなければ分かりませんが、仏像を見るとなんともいえない恍惚とした微笑を浮かべていて、まさに至上の至福を味わっているという感じです。

こんな表情は幸福感を味わっている時に誰もがするものですが、ブッダの笑みには外側に依存していない故の永遠性を感じさせられます。もちろん仏像は作り物ですが、おそらく本物のブッダもこんな表情をしていて、それが永い間語りつがれてきたのではないでしょうか。

瞑想は人生を変える

瞑想で悟ろう!なんていうとちょっと大げさすぎる感じもするし、そんなの無理だよ、なんて最初からあきらめムードにもなってしまいそうです。

しかし、悟らなくても(悟り以前でも)瞑想によって苦悩を減じ、幸福感を味わうことは十分に可能です。悟りほどの至福の深さと永遠性はないのかもしれませんが、多くの人が瞑想の恩恵を受けています。

瞑想を行ない内的な幸福感を味わうようになると、外的な事柄に依存しなくなるので、生き方もおのずから変わってきます。

多くの物を必要としなくなるのでシンプルな生活ができるようになり、その結果、生活にかかる経済的な負担が軽くなるので、仕事を選ぶ上での選択肢が増えるでしょうし、仕事自体もストレスなく落ち着いてできるようになるでしょう。

瞑想によって心身をしっかりと休めることができるようになると、逆に活動する時には集中力と実力を発揮できますし、免疫力も向上するのでより健康にもなります。

また、外部に依存しなくなるので、中毒的な人間関係や悪癖に囚われなくなるでしょうし、内的な幸福感によって、輝いた雰囲気を身にまとうようになるために、同じく輝いている人を引きつけて実り多い人間関係を創ることができるようになるかもしれません。

つまり、瞑想によって生きるのがより楽に、楽しく、安らかに、自在になるということです。

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瞑想とは何か?

ここで改めて瞑想の定義を明らかにしておきましょう。

瞑想について書かれた文献をよく読んでみると、瞑想的な意識状態を指して「瞑想」と呼んでいる場合と、瞑想的な意識状態に到達するための手法を「瞑想」と呼んでいる場合があります。これは文脈によって判断するしかありませんが、ここでは前者を「瞑想状態」、後者を「瞑想法」と呼ぶこととします。

さて瞑想状態といってもその内容は様々です。多くの瞑想者はこんな体験をしているようです。

  • ヴィジョンや通常の五感を超えた感覚を体験する状態
  • 感覚も感情も思考も静まった状態で静謐を意識が味わっている状態
  • 意識が高揚し、上昇感覚とともに無限に広がっていくような状態
  • 感覚も感情も思考も通常そのままたが意識がそれに巻き込まれず観照している状態
  • 五感は機能しているが自他の区別がなくなり、知覚される対象そのものに自分がなっていると感じ<られる状態

・・・などなど。

寝入りばなにもこのような体験をすることがありますが、瞑想状態の場合は意識がはっきりと覚醒している点が異なります。また単なるリラクゼーションと瞑想状態の違いとしては、やはり意識が明瞭であるか否かの点が挙げられると思います。とはいえ、リラクゼーションの状態から瞑想状態に自然に入ることもあるので厳密に分ける必要はないのかもしれません。

瞑想状態になるには?

さて、瞑想状態に入りやすくするのが瞑想法であるといえますが、「この瞑想法をやるとこの状態になれる」という確実な公式はないように思われます。これは実際に実践してみれば分かることですが、同じ人でもやる度に違う体験をしているはずです。その人それぞれのプロセスがあるということでしょうが、様々な異なる瞑想状態をどのように解釈し捉えるかということについては、多様な考え方があり、それぞれに文献があるのでここでは詳しくは触れません。

しかし、瞑想状態が起こりやすい心身の状態というものにはある程度共通性があり、したがって各種の瞑想法にも共通性があります。

瞑想状態が起こりやすい心身の状態とはどんなものでしょうか。

①リラックスしている

まずこれが重要です。心身に緊張があると内側へ意識を向けることができません。

②感覚や感情や思考がある程度静まっている

感覚・感情・思考を見守っている状態を瞑想状態と捉える考え方もありますが、やはりある程度は静まっていないと内側の深層までの気づきがなく、通常の意識状態と変わらないことになってしまいます。心身の緊張を解き放ち、感覚や感情・思考を静めるには体を動かしたり声を出すことも有効ですし、いったん意図的に緊張させておいてそれから緩めるという方法や、時間はかかりますが安定した姿勢を維持しつづける方法も効果的です。

しかし、リラックスして感覚・感情・思考が静まると人は眠りの方へと向かいがちです。睡眠自体は悪いものではありませんが、至福を味わうには意識は醒めている必要があります。そこで次の条件として、

③明瞭な意識を維持する

ということがあります。ところが、明瞭な意識を維持しようと力んでしまうと心身の緊張を招いてしまうので、このあたりのさじ加減が重要です。そこで五感に意識を向けたり、呼吸に意識を向けたりすることで意識を明瞭に保つ技法が考案されてきました。

ただし、内側に意識を向けても幸福感も至福感も何もなく退屈なだけだったという人も中にはいます。それは次の条件を満たしていないということかもしれません。

④心の深い層まで意識を到達させる

悟った人々は「人の本性は悟りである」「人は元々悟っている」などとよく口にします。だとすれば、日常意識している心の表層ではなく、深い層にまで意識が向かうことで隠された至福が顔を出すのではないでしょうか。

心身を静め、リラックスし、明瞭な意識を維持できているにも係わらず瞑想状態が起こらない場合でも、内側の深い層に向かうための手法によって壁を乗り越えることができます。

たとえばイメージを使う手法です。イメージを使うことで心の様々な側面が開示されてきて飽きることなく(?)内側を探究でき、またイメージが呼び水となって非常に深い層まで意識が到達することができます。

イメージはもちろん「作り物」ではありますが、それに囚われすぎないようにすれば、非常に有効なものです。ちなみにチベット仏教の瞑想には、イメージによって思考や感情や自己意識が生起する源泉へ到達し、最後にすべてのイメージを消去するという手法があり、これなどは、イメージを利用し、なおかつそれに囚われない好例であるといえるでしょう。

また、気やプラーナなどと呼ばれているエネルギーを操作することで意識状態を変化させる手法も有効です。クンダリーニ・ヨガの考え方では、クンダリーニというエネルギーを尾てい骨から頭頂に上昇させることで深い瞑想状態に到達できると説かれています。

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様々な瞑想法

様々な瞑想法があり、それぞれに違った方法論を持っているわけですが、ほとんどの手法は今述べた瞑想が起こりやすい心身の状態①②③④のいずれかを導くようなものであるといえるでしょう。

どうしてそのように多くの瞑想法があるのかというと、それは各瞑想法が考案された地域の民族性や文化背景、また瞑想を行なう個々人の個性に合わせて、多彩な手法が必要であったということだと思われます。

たとえば、心身をリラックスさせるにしても、ある人には体をストレッチすることが、別の人はマントラを唱えることが効果的かもしれません。また、イメージを使う場合でも、アジア文化圏ではブッダのイメージが効果的で、キリスト教圏ではイエス・キリストのイメージが効果的かもしれません。

手法が大切なのではなくて、瞑想者自体が瞑想状態に至ることが大切なのですから、多くの手法がこれまで編み出されてきたわけです。また、「瞑想」と銘打たれていなくても、たとえばセラピーやボディワーク、ヒーリングなどで瞑想状態が起こることもあるので、これらも広義の瞑想法といってもいいかもしれません。

しかし、これから瞑想をやってみようという人は、多くの瞑想法があることでかえって選択に迷ってしまうことでしょう。

そこで、瞑想法の選び方をワンポイント・アドバイス。

まず、重要なのが、人の体験談に囚われすぎないということ。「この瞑想法でこんな体験をした」という話は参考にはなりますが、やはり体験は個人的なものなので自分に同じことが起こるとは限りません。

それに「こうなりたい」という結果を追い求めると、なかなかそうなれない自分にジレンマを感じたりして、心身も緊張し、逆効果ということにもなりかねません。

したがって、この瞑想法をやってみたい、とか、この瞑想法は面白そうだという気持ちを優先することをお勧めします。

また、実際にその瞑想法をやってみて、不快感があるような場合には合っていないということかもしれません。ただし、一時的なものかもしれませんので、その瞑想法を熟知している人に相談するなどして疑問点を払拭しておく必要があります。

基本的にはいろいろな瞑想法を同時期にやるのはお勧めできませんが、自分に合ったものが見つかるまでは、いろいろと試してみるのもいいでしょう。

瞑想法実践上の注意

さて、瞑想のおいしい部分だけをこれまで述べてきましたが、あえてここでは瞑想の危険性についても触れておきましょう。

瞑想法には心の深い部分を活性化する働きがあるために、元々、神経症や精神病などを持っている人が行なうと、より状態を悪化させる場合もあるので、注意が必要です。

また、エネルギーを操作する瞑想法などでは、間違ったやり方を行なうことで自律神経失調症などの症状を誘発することがあります。

一定の手順がある瞑想法の場合は、省略をしないで必ず正しいやり方で行なう必要がありますが、正しいやり方で行なっていたとしても、方法自体に囚われて、ある地点から瞑想状態が深まらない、もしくは後退していくということが起こります。

たとえば、意識を明瞭に維持しようと神経質になりすぎて、一種のノイローゼ状態になってしまったり、イメージ瞑想法で、イメージで作り上げた架空の世界に重きをおいてしまって、現実逃避的な人になってしまったりといったことです。

こうなってしまうと、瞑想法は日常生活に幸福をもたらすどころか、アンバランスをもたらす結果となりますので、その点の注意が必要です。とはいっても自分ではなかなか気づけないことも多いので、先達からの指導があると助かります。

しかし、「正しい瞑想指導者」を判別することがまたひと苦労です。正しい瞑想指導者とはどういうものかというと、やはり深い瞑想の境地を自ら体験していて、その途上で起きる可能性のある障害について熟知し、的確な指導をできる人ということになると思います。が、それだけでは不十分で、やはり日常生活と瞑想体験とのバランスをとる方法を教えてくれるような人が望ましいでしょう。ところが、中には瞑想のために日常生活を犠牲にすべき、という考え方を持つ指導者もいます。

修行僧のように日常生活をすべて放棄して、ひたすら瞑想にあけくれるという生き方もありますが、特定の瞑想指導者を師と仰ぐ様々なカルト集団が問題を引き起こしている現況もあって、そのような指導者の元で指導を受けることへの警戒心も高いはずです。

この点については何か正しいということは言い切れません。ブッダも家庭を捨てて出家して、悟りを得たわけですし、瞑想の究極に到達するにはそこまでする必要があるのかもしれません。

しかし、指導者の言動に疑問を持ったら、その下から離れる勇気を持つことも必要です。瞑想のために生きているのではなく、幸せに生きるために瞑想をするのですから、指導者や瞑想法を選ぶ権利はあなたにあることを忘れないでください。

そして、特定の瞑想指導者や瞑想法に失望したとしても、それは瞑想自体の価値を減じ得ないということも覚えておいてください。

瞑想をしよう!

至福の源はあなたの内側にあります。

その源への旅のルートを選ぶのはあなた。道案内を選ぶのもあなた。瞑想は集団でもできますが、いったん内側に向かうとそこからは一人の探求になります。たとえ指導者がいても内側では一人です。そして深い瞑想になっていくほどにその「一人」も消え、「無」となってしまいます。

しかし、その「無」は「すべて」でもあります。

どうしてそんな事が言い切れるんだ、と聞かれると困ってしまいますが、少なくとも、遠い過去から多くの「悟った人々」はそのように語ってきました。

彼らの言葉に少しでも惹かれるものを感じたら、自分が好きになれそうな瞑想法を選んでやってみてください。きっと数力月後には一人でいることが今よりも心地よく、あなたの生か変わり始めます。

瞑想法の種類

(注)このチャートの分類は、各手法がフォーカスしているのであろう領域を、フィリ編集部が独自に判断したものです。正確な情報を得るには各種法が紹介されている記事をご参照ください。また、瞑想法だけでなく、瞑想を助けるであろうセラピーなどの手法も併記してあります。

【ベクトルの解説】
悟り指向:悟りを究極の目的とし、悟り以前の瞑想の境地は越えるべきものとして扱う態度をとるもの。
実用指向:人生を楽に、イキイキと生きるために瞑想を活用しようとする態度をとるもの。
「いま・ここ」指向:意識を「いま・ここ」で起こっている現実にフォーカスする手法を主にとるもの。
超越指向:時空を超えて意識を飛翔させる手法を主にとるもの。

※この記事は下記FiLiより再掲載したもので、内容は当時のものです※

FiLi 別冊保存版「瞑想の本」魂のリラクセーションのために
2000年1月1日発行
有限会社フィラ・プロジェクツ
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この記事を書いたひと
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