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瞑想法(詳細)
瞑想を容易にする方法が「瞑想法」
さてこう書いてくると、瞑想なんて実に簡単なもののような気がしてくる。しかし、本当にそうだろうか?
「判断をしないこと」といわれると「判断は悪いことだ」という「判断」が生じるのが普通だ(笑い話ではない!)。
また、人間(特に現代人)の心身には無意識の緊張があるために「リラックス」も難しい。しかも完全にリラックスできたとしても、たいていの人はそのまま眠りこけてしまい「気づき」を保つことなどできないだろう。
さらに「いま・ここに在ること」も容易ではない。試しに、歩いているとき「歩いている自分」に対する気づきを保つ実験をやってみるといい。きっと一分もたたないうちに、「昨日やり残した仕事」のことや「今夜の夕食」のことを考えている自分にハッとするはずだ。
このように瞑想状態に入るのは人間にとって必ずしも簡単なことではない。そこで考え出されたのが、瞑想を容易にするメソッド、すなわち各種の瞑想法である。
瞑想法にはイマジネーションや身体運動、呼吸法、五感…などを利用した多様な方法が存在するわけだが、それらを実践することで心身は瞑想に入りやすい状態にチューニングされていく。
それぞれの宗教的伝統においてさまざまに異なる瞑想法が存在し、またひとつの宗教の中にも数多くの瞑想法が説かれている場合もあるが、基本的にはいくつもの瞑想法を行なわなければならないということはない。自分に合った瞑想法、つまり自分がスムーズに瞑想状態に入れる方法を選んで規則的に実践していくのがベストだろう。
たとえば、インド最古のヨガ経典『ヴィギャン・バイラヴァ・タントラ』には112種類もの瞑想法が記述されていて、その内容はイメージを利用したもの、呼吸を利用したもの、身体の姿勢を利用したもの、さらには性行為を利用したもの…など多彩なメソッドのオンパレードだ。しかしこれらの瞑想をすべて行なう必要はなく、自分に合ったものを選んで行なえばよいとされている。本誌では、代表的で誰にでも習得しやすい瞑想法をいくつか紹介する。
さて、そのように瞑想者にとって心強い味方となってくれる各種の瞑想法ではあるが、これらの瞑想法を実践する「瞑想の時間」にだけ瞑想をするのでは、不十分だろう。なぜなら人間の精神的な葛藤や苦しみは日常生活の中で起こるのであり、瞑想によって成長した気づきを「瞑想の時間」が終わった後でも保ち続けなければ何の意味もないからだ。つまり瞑想を自分の自然な状態にするということである。
何の努力もなく瞑想の状態にいることができるようになり、瞑想法はもはや必要でなくなったとき、それこそが古来から「悟り」とか「神との合一」と呼ばれた境地なのかもしれない。
もちろんそのような究極的状態を「理性」によって語ることには意味がないし、かつての覚者たちですらその状態をパラドキシカルな(矛盾した)表現でしか伝えることができなかった。
瞑想の重要性を主張しつつも「瞑想のための方法などない」と語ったインドの哲人、クリシュナムルティもそのひとりだ。最後に、これから瞑想を始める人のために、彼のこの言葉を公案(禅のなぞなぞ)として贈ろう。