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~こころ軽やかに~
豊かな人生を創造したい人へ
クリエイティブ・ライティング

クリエイティブ・ライティング(体験談)

初めてフェルデンクライス・メソッドと出会った頃、私の体と心はとても病んでいた。というより、体と心がバラバラの違う方向を見てしまっているようなときだった。
それより約2年前、ドイツで交通事故に遭い、ドイツと日本の病院に約8カ月入院していた。ドイツで1カ月、帰国してさらに日本でも1カ月、意識不明が続いていたが、意識回復後半月経ってから、いろいろな種類のリハビリを始めた。リハビリの訓練は、まさにフェルデンクライスが批判している「機械的な訓練」の繰り返しだった。それでも、訓練の成果か車椅子から立ち上がり、どうにかひとりで歩くことができるようにはなった。
しかし「体」の機能回復と「心」のそれは、同じペースでは進まないものらしい。病院のリハビリで「心理」という時間が、週に一度あった。それは書類だらけの狭い部屋に患者がひとりずつ呼ばれ、その中で知能テストやロールシャッハテストを受けるという、患者の心を完全に無視した『絵に描いたような心理』の時間だった。その「心理」の時間を『拷問』と感じてしまったのは、おそらく私ひとりではないんじゃないかと思う。
部屋の真ん中ではセージ(浄化のためのハーブ)が焚かれている。参加者は16人。まずは、一人ひとりの自己紹介から。福祉関係の仕事、養護施設や、老人ホーム、それから幼稚園の保母さんなど、カウンセリングを主な仕事とする人が目立っていた。もちろん小説家志望の人もいる。ただ、自己紹介からわかったことは、ほとんどの人が洗練された文章を書きたいとか、創造的になりたいといった理由ではなく、短い手紙でもいいから自分らしい文章を書きたいと参加をしていることだった。書くことへの苦手意識を手放したいという人もいた。
最初のテーマは『自分の名前』。なんでも思いつくままに書いてください、と言われる。これは書き始めるためのきっかけに過ぎず、その先はどんな方向へ進んでいってもかまわない。文法も間違っていてかまわない。美化する必要もない。洗練される必要もない。
ノートに書き始めた。誰もそれをいいとか悪いとか判断する人はいない。書き始めてからぼろぼろ涙がこぼれていた。なんだかよくわからないけれど、悲しいというよりは自分と向き合っている時間をつくっていることに涙が流れている気がする。書くことを、内側の自分がとても喜んでいる。そして、自分の名前にまつわる家族のさまざまな印象が溢れてくる。書くという行為がこんなにも自分の内側に入ることになるとは、考えたこともなかった。自分をみつめ、表現し、手放す。さまざまなセラピーの手法と同じことがここでも起きていた。
ワークショップ・リーダーは「自分の中にある感情をすべて書き尽くしたら、それから初めて創造的に書くことができます。私は10年かかりました」と語る。
3日間でかなりの量を書いたが、体は朝の新鮮な空気を胸一杯吸い込んだときのように、リフレッシュしていた。
(記者・39歳・女性)


ジャーナル・ライティングのワークショップに参加した。自分のノートを開く。まず15分ほどの間、何を書いてもよい。ペンにまかせて書きに書く、できるだけ止まらずに書き進む、巧いとか巧くないとかなにも考えなくてよい、という。気持ちを落ち着かせ、書くことに踏みこむためのウォーミングアップなのだろうか。Going Home Entryと呼ばれていた。講師が出したヒントは「今の自分にフォーカスする」こと。頭ではなく「野生の心にゆだねる」こと。
シンと静まりかえった室内にペンの走る音が聞こえる。各々が好きな姿勢でノートに向かっている。「うーむ、私も腹をくくって、やるっきゃないか!」ペンをとり、耳を澄ませて、自分の中に降りていく。呼吸がだんだん深くなる。そして私は、私という故郷に戻り始める。

「緑の中にいる私 どこかで木を伐る音がきこてくる 小鳥の声もきこえている 私のからだの中にある音 木のにおい 材木置場 工場のけむり 蒸気 そして人の声 母の声に安心する 父の声にどきっとする ひんやりした空気 心さむい部屋 長い長い廊下 電気のこぎりの音 木くずのにおい 輪切りにされた丸太の山 そこをはなれたくても はなれられない
そこを出て草の中に 桜の木の下に うずくまっても 草がそよぎ 風の音がきこえてくるのに おちつかない心の中 笑っていても どこかでこわがっている 震えている私 きのう見た一番古い私のアルバム 父がいる 母がいる 妹がいる 兄や姉や 祖父や祖母がいる 私は誰? 沢山の目があった 目があることで 自分を確かめているようでいて それらの目がうとましかった こわかった」(ノートより)

「誰か、読んでみませんか」と講師から。ためらったが思いきって手を挙げる。私のほか数人の手があがった。自分の書いたものをみんなの輪の中で、声に出して読んでみる。空間に自分の言葉が出ていく。そして、それを聞いている自分がいて、他者がいる。
読み終えたとき、照れくさい思いよりも、もっと大きな安堵感があった。「私の今はこうよ」「O・K」。講師のまなざしが静かだ。あたたかな了解が、この空間にはある。
(ライター・50代・女性)

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