ウォーキング・メディテーション(体験談)
ティク・ナット・ハンと出会ってから、生活のあらゆる場面は全て瞑想になり得るのだと知った。これはすぐれた禅の伝統ではあるのだが、日常の中で忘れ去られて久しい。歩くことは人生の隠喩であると同時に、肉体の行為を通じて真実の自己へと至る、最もわかりやすい瞑想法でもある。たしかにわかりやすいものほど無自覚になりがちだし、日常の中へと紛れてしまいやすい。そこで時間を取って練習する必要もでてくる。
私たちの仲間で月に一度、吉祥寺の公園に集まって、ウォーキング・メディテーションを含むティク・ナット・ハンの瞑想会を行なっている。そこでは、座禅や呼吸法の後、武蔵野の林の中を歩くのだが、仲間でこうした集まりを定期的に持つことは、自分の練習を持続するためにも助けになる。歩くことだけではなく、他の瞑想や近況報告などが共にできるのも嬉しい。それぞれに歩くペースは違っていいのだけれど、同じ体験を共にすることは重要だ。それが精神的なつながり(サンガ)を作っていくのに欠かせないことは、師自身も説くところである。呼吸などの方法論にあまり捉われすぎず、むしろ微笑みと歩く喜びを大切にするのも、このウォーキング・メディテーションのちょっとしたコツのようだ。
この夏に、ティク・ナット・ハンが南フランスに創立した共同体、プラムビレッジの夏期瞑想会に参加したが、そこでのウォーキング・メディテーションも、修行というより歩くことの喜びを分かち合ったという印象が強い。来る者は拒まない、という師の姿勢を反映して、ある日のウォーキング・メディテーションの参加者は100人を越えた。
子どもの手を取った師を先頭に、私たちは、ボルドー地方の広大な田園風景の中をゆっくりと歩んでゆく。プラムが香り、涼しい風が糸杉を揺らす。自然に微笑みがこぼれてしまうのも無理はない。隣の人と手を取り合って呼吸を合わせて歩くのも楽しい。
やがて森の中に入り、木漏れ日の射す空き地に輪になって腰をおろす。師の導きで体をほぐしたり、子どもたちが中心となって歌やゲームをする。森をくぐり抜け、ブラックベリーの茂みに出会うと、立ち止まってその一粒々々を口の中でゆっくり溶かす。裸足になって草に触れながら歩く。小さな虫に魅せられている人もいる。それぞれが今この時に深く出会っている。
終わり頃には皆ばらばらになってしまうが、当分の間ニコニコが絶えない。一人で静けさを保ち、集中した瞑想もいいけれど、微笑みを交わし合えるほど素敵なことがあるだろうか。プラムビレッジのウォーキング・メディテーションは、「人と人の間」に身を置き、自分の喜びを人と分かち合う菩薩行の練習のように思えた。
さて、自分の日常に帰ってこの瞑想が生かせなければ意味がない。ティク・ナット・ハンは、たとえどんな状況でもウォーキング・メディテーションはできるのだ、と言う。通勤ラッシュの人混みの中で、スーパーマーケットの通路で、学校の廊下でできるだろうか?
微笑みを浮かべ、呼吸に注意を向ける。たとえ速足であっても、心をこめてていねいに歩く。どこかへ行くためではなく、いつも今、ここに到着するように歩く。大切なのは、いつもあなた自身と共にあることだ。歩くことでそれが本当になる。何よりすばらしいのは、この項を読み終えたあなたが、この場所から立ったその時から、ウォーキング・メディテーションがすぐに始められる、ということだ。
生まれて初めて歩く子どものように、驚きに満ちてもう一度歩いてみよう。
(自営業・36歳・男性)